科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる
とても読みやすい科学哲学入門書 |
科学立国の国でありながら、日本の教育課程ではそもそも「科学とは何か」を教えない。科学とは何で、神話や宗教とはどう違うのか。科学はどうしてこうも「成功」し、この星の文明に多大な影響を与えたのか。なんてことを考えるための手がかりは、ありそうであまりない。
科学哲学とは、科学という営みそのものを研究する分野だが、上に書いたような素朴な疑問を考えるために気軽に紐解けるような入門書は多くはない。そんな中で、本書は非常に読みやすく、しかもけっこう深みのある科学哲学入門書であり、他にほとんど例をみないかもしれない。
科学とは何か、を考えてみたい人が最初に読む一冊としてオススメ。
「意味論的解釈」について少し突っ込んでほしかった・・ |
先生と理系、文系の二人の学生の対話形式で進められていきます。
形式はともかく、科学哲学の諸説がほぼ網羅されており、科学哲学がどんなものかを知るには有用でしょう。
科学哲学のおもしろさを知る一例を挙げておきます(本書の第一章で議論されます)。
Hを仮説、PをHから帰結する観察文としたとき、
A仮説演繹法
H⊃P、P →H
B反証法
H⊃P、¬P →¬H
という二つの立場があります。
Aは我々が直感としてもつ科学の営みに近いといえます。例えば、
H=ニュートンの法則
P=帰結する天体運動
としてみると、実際我々はPが観察によって確証されることにより、Hが正しいと認識しているわけです。
しかし、著者が強調するようにAは論理的に妥当な推論(トートロジー)ではありません。過去にPがすべて真であったとしても、明日反例が見つかることを否定することは出来ないのです。
一方でBのほうは論理的に妥当な推論ではありますが、この立場からは科学の予測可能性などを説明することはできません。
この例一つをとっても、
科学≠論理学
帰納法がなぜ成り立つのか(帰納法の正当化)
など興味深い問題を考える契機となります。
著者自身は最終的に「意味論的解釈」という立場をとります。
これは「科学理論=実世界のモデル」と解釈するものですが、論理学の意味論との対比などを踏まえてもっと突っ込んだ議論をしてほしかったな、と個人的には思いました。
はじめての readable な科学哲学入門書 |
本書の中にも確か書かれていたと思うが、この世界でも有数の出版大国日本で、これまで何故か科学哲学の適切な入門書が殆ど無かった。内井惣七氏や小林道夫氏の著書は本格的過ぎて初心者にはとっつきにくいし、村上陽一郎氏の著書は著者の立場が強く出過ぎていて入門書には不適だった。本書をもって、日本語で書かれたはじめての科学哲学「入門書」の誕生と呼べるのではなかろうか。
「リカさん」「テツオくん」「センセイ」3人の対話篇で進行し、オチャラらけた薄い内容ではないかと、読み始めは心配したが、なかなか本格的な内容でビックリした。
ただ前書きで著者が「科学的実在論を擁護する」と明言していながら、最終的に擁護しているのは「意味論的科学モデル(だったかな?)」に基づいた「自然主義」、つまり「プラグマティズム」に限りなく近い「実在論もどき」ではないのだろうか?
「科学的実在論」って一種の信仰か性癖みたいなもので、擁護することが「私は神を信じます」とか「俺はゲイだよ!」みたいな一つの発話内行為(祈り)になっているのでは?
この本でようやく「理解できた」感じになりました。 |
科学哲学って高度に専門的で、正直難しい。けど、20世紀、現代思想の重要な駆動力のひとつとしてかなり派手な役回りを担った分野でもあると思う。
僕はかつて「科学的であるとは誤りであることが証明可能なことだ」という実に鮮やかなカール・ポパーの議論にすっかり感心してしまったものです。うまい!と膝を打ちましたね。
科学の実際の歴史はポパーの見方のとおりには動いていないとするクーンのこれまた衝撃的な「科学的認識は反証よりも科学者の属するパラダイムの維持を最優先する」という議論も深く考えさせる力がありました。ここから反クーンの科学哲学の本流と、クーンを奉じて勢いづく社会学的な科学論(社会構成主義)との長い戦いが始まるわけですが…
本書はその科学哲学本流の議論の推移と核心をリカちゃんとテツオくんとセンセイの三人の対話形式で鮮やかに教えてくれる本。異常に飲み込みが早い二人の生徒の頭の回転がちと非現実的な気もしますが、三人の会話を丁寧に追えばそれだけでいつのまにか、古くはヘンペルの「仮説−演繹モデル」から最新の「意味論的モデル」までの科学理論の本質をめぐる終わりなき(?)議論の全体像をすっかり理解できた気になること請け合いです。
社会学に慣れると、社会構成主義ってものすごくリアルに感じられてしまうものなので、戸田山氏が本書の一部を割くアンチ構成主義の議論にはちょっと異議を差し挟みたくはなりましたし、しかも構成主義のバイブル『科学が作られているとき』をラトゥールとウールガーの共著と勘違いしておられるし(二人の共著は『実験室生活』です)文句なしではないんですが、それはともかく分かりやすさ抜群であることに一切異論はござりませぬ。
科学に対する見方が変わります |
科学哲学という分野がそもそも存在することを知らなかったため、本書を手に取るまで、哲学という分野に科学そのものがテーマとして扱われているという事実すら気づかなかった。そのせいもあり、あらゆる面で新鮮な内容であった。
素人にとって、哲学という分野は、無益な思索をめぐらす学問というイメージが強いようである。かくいう自分もバリバリの理科系人間であり、社会現実的に目に見える形で成果を還元できなければ研究する意味などない、と考えているのであるが、科学哲学という分野は思索先行型の哲学体系の中にあって、珍しい分野だと思った。
たとえば科学に従事していくことでさまざまな「事実」が明らかになっていくが、そもそもこうした発見は「事実」足りうるのか(e.g.サリドマイドが無害と謳われていた「事実」はどうか)、こうした「事実」を明らかにしていくということは、世界の背景には絶対的・完全的な世界があり、それに近づくことを意味するのか、など、実利的ではないにせよ、科学をやっていく根本的な意味を問いかけるには十分すぎる内容がそこにはあった。本書はそうした「科学について考えていくこと」を非常にわかりやすく解説してくれている。語り口も先生と生徒の会話形式になっており、哲学の用語もきちんと説明されるのでスムーズに読むことができる。
本書を読むことによって、科学研究を続けていく意味を深く考えさせられるよい入門書となっている。