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自由を考える―9・11以降の現代思想

自由を考える―9・11以降の現代思想 人気ランキング : 23809位
定価 : ¥ 1,071
販売元 : NHK出版
発売日 : 2003-05-01
発送可能時期 : 通常24時間以内に発送
価格 : ¥ 1,071
パラドキシカルな視点にあふれた現代世界分析

斜め読みではあるが、なかなか面白い。9.11以降の社会の実態を照射するような発見やパラドキシカルな見解にあふれている。イラクとアメリカ・イギリスの戦争については、米国は主要な敵を原理主義者と見ているが、そのような原理主義者を完成させるのはブッシュ・ドクトリンに基づく政治的・軍事的行動にほかならないという点で「アメリカの勝利こそがアメリカの敗北である」であるといえ、これこそブッシュ・ドクトリンの究極のアイロニーであるとか、イラク戦争を通じて「夜警国家」のような「最小国家(minimal state)」は最小ではなく、それどころか最小国家ほど大規模な国家はないかもしれないとか、「9・11」の月と日を入れ替えるとそれはベルリンの壁が崩壊した「11・9」(1989年11月9日)になるが、「11・9」以降(冷戦期に外在する敵を恐れてきた)人々は、壁のない社会の到来を期待したが結果的にいたるところに壁がある社会を手に入れることとなったとか、その壁が今日保守しているのは、冷戦の時代に存在した壁が思想に規定された体制の選択に基づくものであったのに対し「内なる敵」からの危険を回避する「安全な生活、快適な生活」であるとか、なかなか読ませます。

東浩紀再考

 デリダ論から出発してオタク評論家になったと見なしていた東浩紀がマトモな評論家であったことを知って、彼を見直そうというきっかけになった本。ここでは大澤真幸の議論に付き合って一歩も引かず、かつさりげなく過剰に弁証法的思考に傾く大澤をいなしているのは見事。
 二人の問題意識は重なっている。権力というものを、ジョセフ・ナイのいう「ソフト・パワー」(要は洗脳)という観点から捉えている。つまり、管理されていると感じさせない管理が最高の(つまりもっとも危険な)管理である、ということで、これは生命学の森岡正博の「無痛文明」にも通ずる考え方で、現代知識人が関心を寄せるテーマは同じようなことなのだ、と感心した。
 しかし、残念ながら、「どうして自由が必要か」という最後の問いに、両者ともうまく答えを見いだせないいらだちを、浅羽通明が「安全の方を自由より重んじる人間は自由を捨てたらいい」と切って捨てているが、この指摘は説得力があると思われる。敢えてこの批判に対して二人を弁護するとすれば、現代社会においては、全員が合意しないと成り立たないことがあるのであって、各自が選択の自由を必ずしも持てるとは限らない、つまり、安全を担保するためには、全員が「自由を捨てる」ことに合意する必要があるのだ、と返答することになろう。
 エキサイティングな討論であることは確かである。

考えるためのきっかけ

かつて、価値判断の基準となり、物事に意味を与えてくれるようなものが存在し、人々がそれを共有していた。近代以降、そのような存在が失われつつあり、冷戦構造の崩壊後それが顕著になった。
この帰結として、社会秩序を維持するための手法が変化した。従来の、教育による内面からの管理から、環境を管理することによる手法が主流となりつつあるのだ。
以上の現状認識にもとづき、この変化によって得られるもの/失われるものについて、想像力をめぐらせるきっかけをこの本は与えてくれる。考えるためのフレームワークを提示するには至っていない。フレームワークの構築には従来の「自由」概念の再構築が必要なのではないかということが提案されている。

表題に偽りあり?日本文化論として読むべき本

 実際にアフガンでNGOワークをした経験のある自分にとっては、帰国後読んだこの本の中で、中東イスラム・テロが「物言わぬ」存在として驚異(脅威)を持って整理されていることに違和感を感じた。アタリ前だけど、その土地にいくと饒舌に彼らはアメリカ、日本、資本主義とイスラムなどについて語ってくる。
 この本は9.11以後の「自由」についての対談なのだが、ここで語られる「自由」は住基ネットが取り上げられているように日本の都市生活における「自由」、それもテクノロジーとの関係における「自由」に限定した話だということを読者は心がけておくべきだろう。
 イスラム教徒やアメリカのクリスチャンと話していて感じるのは、大抵の人は何らかの信仰がないと「不安」だということで、多分、今「自由」を語るには、そういうメンタリティからの「自由」のほうが哲学者・批評家に語ってほしいことなのだと感じる。

国家権力より社会のほうが危険に感じられる時代

 1958年生まれの社会学者と1971年生まれの哲学者が、流行の現場主義に理論を再導入し、問題を提起し(解決ではなく)、現場から理論を叩き直すことを意図して行なった、2002年後半の3回にわたる対談の記録。大きな物語の共有に基礎を置く従来の「規律訓練型権力」に対して、近年では人の行動を物理的・無意識的に制限する「環境管理型権力」が台頭してきている。後者は価値観の多様化と矛盾しない権力の在り方であり、したがって対抗することが難しい。人間は固有性(自分でしかありえない私)と偶有性(他者であったかもしれない私)の二つを持って、初めて人間でいられる。偶有性のために、人間は疎遠なものでも引き受け得る想像力(共感能力)をもっているが、環境管理型権力はその弱体化につけこむ。現在の権力は、偶有性の弱体化(動物化)により連帯の可能性も弱体化し(島宇宙化)、公共圏のヴァーチャル・リアリティ化(対話の無力化)とセキュリティの強化(剥き出しの生の管理=生物的身体の編成)とが、乖離したまま同時に進行している状況において働く。これに対抗しようとすると、「犯罪をする自由」のような、収まりの悪い表現になってしまうため、著者達は新たな概念の発明によって、この偶有性の重要性を表現し、政治的身体と生物的身体をもう一度結び付けようとしている。議論がやや抽象的だが、現在の自由に関する問題の所在を鋭く突いている(国家権力よりも社会の方が危険に感じられる現代の状況下での、イデオロギーを無効化したセキュリティの暴走)。ただ、凡庸な実践を積み重ねていくというなら、セキュリティ情報の「管理者」の問題(警察の不祥事の監視の在り方や、サイバーテロの危険性)は問題にすべきだろう。なお、大澤氏が論理の流れを重視するあまり、二面性の弁証法的総合を強調しがちなのに対し、東氏はより実践的であり、二面性の並存を強調する傾向がある。

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